先月、来日中の日系2世ドラマーのAkira Tanaさんに、お話をうかがう機会を得ました。目的は、Akira Tanaさんが、1981年~1983年にわたりサックスの名手Zoot Simsのバンドのドラマーとして活躍されていたので、当時のお話を聞きたいと思ったからです。

Akira Tanaさんは、ハーバード大学卒。その後ニューイングランド音楽院を経てプロとなった方。1979年よりニューヨークで活動し、ソニー・ロリンズ、ズート・シムズ、ミルト・ジャクソン、ジム・ホール、アート・ファーマー、J.J.ジョンソンなどの凄いメンバーと共演。10枚近いリーダーアルバムの他、参加アルバム数は150を超えています。米国生まれの日系人を代表するジャズマンと思います。(お土産としていただいた右のアルバムでは、ザ・ピーナッツが歌った懐かしの「恋のバカンス」が、洒落ています)

お聞きした内容は、私もメンバーとなっているZoot Sims Funclub:http://zootsimsfanclub.net/の皆さんに、先ず紹介できればと思っています。

Akira Tanaさんとの出会いから、私の米国駐在時代に出会った日系人の方々のことを思い出しました。
私がもっとも感銘を受けたシアトル在住だったM.T.氏(以下愛称のMinさん)の想い出を少しだけ語ります。

1940年12月8日の日米開戦により、日系人は強制的に厳しい環境の収容所に入れられたことは、皆さんもご存じと思います。(戦前に移住されたAkira Tanaさんのお父さんも収容所暮らしを経験されたとのことでした)
そのような日系人に対して厳しい状況の中、多くの若い日系人たちが、日系人で構成された第442連隊に参加、欧州戦線の最前線で、祖国アメリカのために戦いました。 第442連隊は、常に激戦地に配置されたことから、米軍の中で戦死者率が高い部隊の一つだったと言われています。

Minさんも、この第442連隊に志願兵として参加されました。(勇敢な働きぶりから、軍の勲章をもらっています)
1988年に初めてお会いした当時、既に70歳。 保険ブローカー(お客様と保険会社の仲立ちをする仕事)のお仕事の最晩年に、一緒に仕事をさせていただきました。(私は34歳の若造でした)
土日であってもいとわずに尽くすMinさんの献身的な仕事ぶりは、シアトルに進出した日系企業のお客様の皆さんから絶大な信頼を得ると共に、私のパートナーだった提携保険会社のアメリカ人達からも、信頼、評価されていたのが印象的でした。(シアトルの日系人社会での多年の功績から、日本政府からの叙勲の栄にも浴されました)

駐在したばかりで英語も拙く、現地事情も疎かった若造の私を慈父のように温かく包んで、力になってくれたことは、今でも忘れられません。

全米に約100万人いる日系人も世代交代が進んで、現在はアメリカ社会に溶け込んでいると思いますが、移民1世やMinさんのような2世は、戦争に翻弄され、また厳然とした差別のあったアメリカ社会の中で、言葉に尽くせぬ数多くの苦労があり、それを乗り越える大変な努力を重ねてきたことと思います。そんなことを改めて思い出させてくれた、Akira Tanaさんとの出会いでした。